2004年3月31日

第34回 チベット学の泰斗 北村甫先生

 

 北村甫先生のところに、多田等観先生の話を聞かせて頂きたいと、初めてお訪ねしたのは平成14年の晩秋のことである。金木犀が金色の花びらを一杯につけて、先生のお宅への道しるべのように、小路の曲がり角ごとに、その香りを漂わせ咲き誇っていた。北村先生は人も知るチベット学の第一人者で、先の日本チベット学会会長の偉い先生なのに、私の話を静かにまともにきいて下さった。その飾らないお人柄に、あたたかなお気持が感じられて、とても嬉しかった。
  私は多田等観先生が父を訪ねてこられたとき、何度かお会いしたことがある。母は等観さんと呼んでいた。等観さんは、おさげ髪の私がお茶を持っていくと、おおいたのか、と振り返り、そのまま父との話を続けていたのを覚えている。風のようなお人だった。その等観さんの東北大学の資料と、仙台空襲での我家の全焼とが、関連があるのではないかと感じた平成11年の夏以来、本当のことが知りたいと当時のことを訊き歩き、等観さんの経典とお金の流れを辿れば、何かわかるのではないかと、東洋文庫をたずね、北村先生にお伺いすることになったのである。
 北村先生は、多田等観先生との出会いから、チベットのことなど、ゆっくりと話してくださった。
 北村先生は大正12年静岡に生まれ、昭和19年の学徒出陣のとき、東大の言語学科の学生として、ニュースで有名な神宮外苑の雨のなかの行進に参加されている。あのときはちっとも悲壮感などなかったなあ、と往時を語って下さった。昭和20年10月に復員、東大に戻られた先生は、昭和21年4月から、言語学の講座で、多田等観先生の「西蔵語文法」を学んだ。その時のことを、北村先生は、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長のとき、講演「AA研に入所するまで」で、「多田先生の授業は文法の説明がいつしかチベット滞在の体験談となってしまう型破りの授業で、チベットのこととなると、実に生き生きと話をされ、私は先生の醸し出す雰囲気に惹き付けられて、チベット語を専攻しようと決めた。」と語っておられる。北村先生の卒業論文は「五體精文鑑における満州字の表す西蔵語の音韻について」である。
 以来北村先生は、「世界言語概説」のチベット語の担当をはじめとして、チベット語ばかりでなく、言語学上の数々の研究業績を残し、さらに多田先生が、チベットから請来し東北大学に納めた経典以外にも多数の文献を持っていることを知り、昭和24年と昭和29年に、文献の疎開先の岩手県花巻に赴き、経典を一帙づつ点検して文献カードを作成。後にこれらのすべてを東京大学に納められた。また先生は、昭和33年、後に理事長となった東洋文庫に迎えられ、多田先生と共に蔵和辞典の編纂に力を尽くされた。
 北村先生と多田先生との交流は師弟の域を超えて親しいものがあり、多田先生はよく北村先生の家に泊りに来て談笑したという。多田等観著「チベット滞在記」には、多田先生と馬に乗って並んだ写真(1961年、インドにて、弟子の北村甫氏と)が残されている。昭和42年に多田先生が逝去されたときは、葬儀委員長として築地本願寺で葬儀を営まれている。
 平成15年9月末、北村先生をお訪ねしたとき、夏に体調を崩され、少しお痩せになっていたようであった。先生からお聞きした話をまとめた「北村談話」の草稿や、多田先生の年表の計画をお目にかけ、チベット関連の話をホームページ載せることなどをお話した。先生は、それはよかろうと賛成して下さって持参した資料にお目を通されていたが、「疲れた。寝る。」と仰って隣室へ引き上げられた。奥様と少しおしゃべりして帰る時、北村先生は「おう」とベッドに腹這いになって、澄んだ強い瞳でじっと私をご覧になった。何かを私に託そうとなさっていると感じながら、黙って先生の視線を受け止め帰途についた。これが先生とお会いできた最後であった。先生は私の心のゆらぎを敏感に捕え、奥様に「もう一度くるつもりだろう」と語られたという。
 平成15年12月16日、北村先生は胸膜炎のため逝去。翌平成16年2月1日、百名を越す各界を代表する著名な方々が参集して先生を偲ぶ会が開かれた。北村先生がどれだけ多くの人々に慕われ尊敬されていたかは、昭和62年に北村甫教授退官記念論文集「チベットの言語と文化」が、既に一流の学者となった愛弟子15名の執筆、長野泰彦・立川武蔵両先生の編集により、北村先生への感謝のしるしとして刊行されたことによっても知ることができる。日本のチベット学の集大成ともいうべき文献である。
  北村先生は、若い日のチベット学への志を生涯かけて大成させ、磨き上げられた叡智と繊細な感性で人々を励まし、人間としての大切なものを、人の心に遺して逝かれた。先生が最後の日に、私に託された言葉は「真直ぐに進んで行きなさい。そうすれば道は開けるだろう。」であったと感じている。


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